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第3話 蛇の足音

Author: 秦江湖
last update publish date: 2026-08-10 12:16:49

残業を終え、デパートの勝手口を出たのは夜の九時を過ぎた頃だった。

初夏の湿った夜風が、火照った頬を撫でる。

絢人への指導は滞りなく終わった。彼は飲み込みが早く、私が教えた社内システムの検索コードも、顧客の購買傾向の分析手順も、一度聞いただけで完璧に把握してみせた。

(優秀すぎるのも、考えものね……)

夜の街を歩きながら、私は眼鏡のフレームを押し上げた。

絢人の知性は本物だ。こちらの意図や動作のわずかな引っかかりを、敏感に察知する鋭さを持っている。彼を道具として操るには、想像以上に細心の注意が必要だと痛感していた。

角を曲がり、人通りの途絶えた路地に入る。

一見すると古びたビンテージショップの看板が見えてきた。扉を押して中に入ると、カウベルが低く鳴る。

「遅かったな、志乃」

カウンターの奥から現れたのは、影山駆だった。

ボサボサの黒髪に、使い古されたワークシャツ。だらしない見た目とは裏腹に、その眼光は野良犬のように鋭い。

「外商部での仕事はどうだった?」

「順調よ。最初のターゲットを根津親子に定めたわ」

私はカウンターのパイプ椅子に腰掛け、昼間の出来事を手短に報告した。根津健太の不遜な態度と、社内での立ち回りから透けて見える浅はかさ。そして、息子の失態や弱みを突けば、父親である根津部長も連鎖的に崩せるという見立てを。

駆は煙草に火を点け、紫煙を吐き出しながら口元を歪めた。

「相変わらず容赦ねえな。で、あのバカ息子の弱み、さっそく洗うか?」

「ええ。頼めるかしら、駆」

「お安い御用だ。健太の裏の顔なら、少し突けば埃が山ほど出てきそうだぜ」

駆は高校時代、一人で密かに空手の鍛錬を重ねていた私を見つけ出し、実戦的な騙し合いや裏の情報の扱い方を仕込んでくれた男だ。私の過去も、復讐の執念も、すべてを知る唯一の共犯者。

「それと……三島宗一の息子、絢人が外商部に研修配属されたわ。今日から私が指導係を担当しているの」

駆の煙草を挟む指が、ぴたりと止まった。

「……あのボクちゃんか」

「ええ。思っていたより鋭い男よ。私の些細な表情の変化や仕草を、観察するように探ってきたわ」

「おいおい、大丈夫かよ。ボロ出して疑われてんじゃねえだろうな」

「心配いらないわ。私がヘマをするわけないでしょう」

そう口にしながらも、胸の奥に小さな引っかかりが残っていた。絢人のあの澄んだ、けれどすべてを見透かすような瞳。

駆は煙草を灰皿に押し付けると、身を乗り出して私を覗き込んできた。

「志乃。仇の息子だからって油断するなよ。あいつは三島宗一の血を引いてるんだ。外面の良さで人を油断させて、裏で何を考えてるか分からねえぞ」

「分かってるわ。あいつは三島家を潰すための、格好のカードよ。私がうまく手綱を握ってみせる」

「……ならいいが」

駆はどこか不満そうに呟き、カウンターの下から小型のノートPCを取り出した。

「健太の周り、まずは社内データと交友関係から洗ってみる。デザインの盗用疑惑やら、インサイダー取引の噂やら、いくつか怪しいタレコミが上がってるからな。裏が取れたらすぐに回す」

「助かるわ、駆」

PCの画面を見つめながら、私の唇に冷ややかな笑みが浮かんだ。

根津栄治と健太。まずはこの二人を、二度と再起できないどん底へ突き落とす。15年前、父を裏切った者たちへの最初の制制裁だ。

「明日の朝、外商部に白川結衣が来るわ」

「あの最大株主のワガママ娘か。絢人の婚約者候補の」

「ええ。白川結衣の対応を利用して、根津親子のボロをさらに引きずり出すわ」

立ち上がり、身なりを整える。

「じゃあ、また連絡する」

「おい、志乃」

店の出口に向かう私に、駆が低い声をかけた。

「……あいつの前で、変な顔見せるなよ」

私は振り返らず、ただ小さく頷いて店を後にした。

翌朝。

デパートの開店前、外商部のオフィスは朝から独特の緊張感に包まれていた。

「いいか佐倉さん! 今日の十時に白川結衣さまがご来店される! 君は失礼のないよう、白川さまの言われた通りに完璧に動いてくれ! 一つでも不手際があったら大変なことになるからな!」

根津部長が、額に汗を浮かべながら私に指示を飛ばす。最大株主の令嬢を迎えるプレッシャーからか、声には余裕がなかった。

「承知いたしました。万全の態勢でお迎えいたします」

私は深く頭を下げ、完璧な従順さを演じた。

オフィスの隅で、デスクに向かっていた絢人が静かに立ち上がる。

彼は根津部長の荒げた声にも動じず、私の方へ歩いてくると、隣に並んだ。

「佐倉先輩、僕も白川さまのご対応に同席させてください」

「三島さん? ですが、白川さまは大変厳しいお客様ですが……」

「大丈夫です。先輩のサポートをしながら、外商のトップ顧客への接客を学びたいんです」

絢人は穏やかな笑みを浮かべていた。

だが、根津部長が背を向けて去った瞬間、彼は私だけに聞こえる小声で囁いた。

「根津部長、なんだかすごくナーバスになっているように見えますね。……佐倉先輩、何かお気づきですか?」

私は心臓が一瞬強く脈打つのを感じた。

眼鏡の位置を直すフリをして、彼の顔を見上げる。

「いいえ。何も知りませんが……どうしてそう思われるのですか?」

「いえ、直感です」

絢人は短く答え、私の瞳をじっと見つめえ返してきた。

その真っ直ぐな視線の裏に、私を試すような静かな探りを感じ取った。

(三島絢人……あなた、どこまで探る気なの?)

互いに笑顔を貼り付けたまま、視線が交錯する。

白川結衣の来店まで、あと三十分。外商部を舞台にした盤面が、着実に動き始めていた。

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  • 愛した人は、私の仇でした~御曹司との復讐から始まる恋~   第6話 割れた眼鏡と、月光の戦慄

    「下がりなさい、三島さん!」車から飛び出した私に、夜の冷たい風が吹きつける。だが、絢人は引き下がらなかった。私の前に立ち塞がり、大の男たちを毅然とした眼光で睨みつける。「目的はアタッシュケースですね。警察には連絡しません。品物を渡せば引いていただけますか?」「ハッ、生意気なボクちゃんだな。要求するのはこっちなんだよ!」先頭の男が嘲笑うと同時に、手にした鉄パイプを容赦なく振るい抜いた。鈍い衝撃音が響き、絢人は肩を深く打たれて路面へ倒れ込む。「三島さん!」「手出しすんじゃねえよ、眼鏡OL!」残りの二人が嘲笑いながら、倒れた絢人に足を向けようとする。その瞬間、男の一人が私の腕を強引に掴み引き寄せた。揉み合う拍子に、男の手が私の顔面に当たり、大きな黒縁眼鏡が夜の路面へと弾き飛ぶ。パチン、と乾いた音がして、眼鏡のレンズが粉々に砕け散った。「ちっ、邪魔な眼鏡だな——」男が言葉を言い終わることはなかった。視界から地味な枠組みが消えた瞬間、私は後ろで結んでいた髪留めを引きちぎった。解けた黒髪が夜風にふわりと舞い上がる。私はゆっくりと顔を上げた。月光の下、そこにいたのは「地味で冴えない佐倉志乃」ではない。氷のように冷たく、男を射殺すような鋭い瞳をした東条志乃だった。「……触らないで」低く徹した声に、男が一瞬身体を強張らせる。次の瞬間、私は踏み込んだ。武道で鍛え上げた身体軸がブレることなく回転する。体重を完璧に乗せた正拳突きが、男の溝おちを正確に打ち抜いた。「がハっ……!?」男は呼吸を奪われ、膝から崩れ落ちる。「おい、な……何やってんだ!?」仲間が倒れたことに混乱した二人目が、ナイフを構えて襲いかかってきた。私は刃筋を最小限の体さばきでかわすと、男の手首を掴んで捻り上げ、そのまま肘関節へ下段蹴りを叩き込む。悲鳴とともにナイフが闇へ舞い、私は隙を逃さず頸椎へ刀手を叩き落とした。男は白目を剥いて倒れ込む。「化け物……っ!」残った最後の一人が鉄パイプを振り回しながら迫る。私は相手の間合いの懐へ一気に滑り込み、掌底で顎を突き上げた。脳を揺らされた男は、そのまま意識を失って叩きつけられた。わずか数十秒の出来事だった。路上には三人の男たちが横たわり、静寂が再び山道を包み込む。荒い息を整えながら、私はハッと我に返った。(しまっ——)や

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